第7章世界選手権(10)世界から受けた洗礼と希望

その10 世界から受けた洗礼と希望

 世界選手権開催の地、台北に日本代表が飛び立ったのは2004年11月17日であった。日本の試合は23日から始まる。参加国は16カ国、日本は、C組に組み分けられ、相手はパラグアイ、イタリア、アメリカであった。予選リーグ2位までが2次リーグに進むことができる。2次リーグに入ればベスト8である。2次リーグからさらに上位2チームがベスト4となり、準決勝を戦う。むろん、日本の目標はまずは予選1次リーグ突破である。

 

 右肩上がりのフットサル界とあって、マスコミの注目度は高かった。非公式ではあるが、サッカー協会フットサル委員会委員長大仁、副委員長松崎らが、全国リーグ設立に言及したことも注目度を上げる効果があった。

 

テレビ放送は、スカパーが日本戦3試合を生中継、テレビ朝日が総集編を放送することになった。フジテレビはゲットスポーツで壮行試合のアルゼンチン戦をすでに放送している。

 

 比較的場所が近いせいもあってか、応援ツアーも多数組まれた。セリエA、JTB、ジェイワールドトラベルなどである。実際、すでに紹介した応援団ポエイラをはじめ、かなりの日本人が応援に行った。また、日本でのパブリックビューイングも都内2箇所で行われた。東陽町にあるフットサルコート+カフェ+ショップ 「KEL(ケル)」と恵比寿にあるサッカー観戦カフェ 「Footnik」 である。フットサルでは珍しいことで、この先も多くあることではないだろう。

 

 今(2010)から約2年前の2008年、ブラジルで行われたフットサルワールドカップ(このときからワールドカップと呼称が変った)に比べると、かなり盛り上がりを見せたものである。これは、開催場所が近かったことと、いろいろな面で期待が大きかったことによるものと思われる。

 

 さて、出場メンバーであるが、市原から小宮山への変更以外では、ゴールキーパーが遠藤から石渡に、フィールドプレーヤーが稲田から高橋に代わっている。あらためて、紹介すると、ゴールキーパーが川原、定永、石渡、フィールドが比嘉、相根、藤井、難波田、前田、金山、鈴村、木暮、小宮山、小野、高橋で、キャプテンは比嘉が務めることとなった。

 

結果は、第1試合のパラグアイ戦の4-5のわずか1点差の敗戦が痛かった。(奇しくもパラグアイは先頃行われた2010サッカーワールドカップ南アフリカ大会の日本の決勝トーナメント1回戦の対戦国である。)

 

前半は、木暮の先制から、前田の第2PK、比嘉のミドルシュートが決まり、3-2でリードして終了した。しかし、残り1分で1点差に詰め寄られた終わり方がよくなかった。後半はパラグアイのペースになり、ついに後半11分に同点とされてしまう。それでも、残り7分、再び木暮が勝ち越し弾を決めるも、ここからが実力の差かも知れない。残り4分、残り2分と決められ、同点の引き分けどころか逆転負けとなってしまった。

 

試合後のFIFAのサイトには、「パラグアイのヴィジャルバ(前半1点差、後半同点打の選手名)は木暮を影の薄いものにした」とヒーローになり損ねた木暮の記事が出た。また、日本のブルーと太鼓の応援とパラグアイの赤と黄色の応援を取り上げ、情熱的な雰囲気をかもし出したと好意的であった。しかし、締めくくりは、「パラグアイの赤とイエローのポンポンが日本の太鼓をおとなしくさせた」とあった。非常に悔しい敗戦であった。

 

2試合目は、強いイタリアになすすべもなく、0-5で敗戦、しかし、3試合目のアメリカ戦はアメリカがパラグアイに勝ったため、5点差をつけて勝てばまだ2位ののぞみがあった。試合展開は優位に進めたが、アメリカに先制点を奪われ、残り1分で木暮が同点にするのがやっとであった。1分け2敗で日本の夢は終わった。

 

 第1戦をリードしながら落としたことや、得失点差のことを考えたら2戦目のイタリア戦を5点差の敗戦はいただけないなど、経験不足、力不足は否めなかった。

 

 優勝の行方は、またしてもスペインで、準決勝でブラジル、決勝でイタリアを下しての2回連続優勝であった。3位には、3位決定戦でアルゼンチンを下したブラジルが入った。

 

 希望はというと、これを機に当時は比較的年齢が若い鈴村、木暮、小野、少し遅れて高橋が海外へ挑戦する気になったことで、しかもこれを実現させたことである。また、木暮、小野と同世代の小宮山は市原の代替で選ばれながら2試合出場できなかった悔しさを味わい、市原のため、自分のためにこれをバネに代表に選ばれ続けようと思ったことである。実際、小宮山はこれを実現させた。

 

 もう一つの希望は、ガロ、シャークスの「トヨ」が始めたフットサルの応援の輪が、山川のポエイラとなって大きくなり、この台北で応援に加わったサポーターが日本に帰ってからさらに広がったことである。これは、のちにFリーグ設立のためのプロジェクトチームが関東リーグを見学に来ることが多々あったが、好印象を与える効果をももたらした。

 

 カスカベウのちにペスカドーラ町田のサポーター、「シミケン」のフットサル愛好の歴史は古く、2000年のカスカベウ優勝の頃だった。しかし、見るだけではなく、サポートする行動に出たきっかけは、台北での代表応援経験が大きいという。同じくカスカベウの「あやこ」も実際に行動を起こしたのはFリーグ設立の頃であるが、台北の応援経験者である。一方の雄、ファイルフォックスの方はというと、「かっさー」がやはり台北の経験から、ファイルフォックスを応援するようになった。

 

そののち、あるいは相前後して、フトゥーロの「ウンノ」、府中アスレティックの「ユースケ」らが、それぞれのチームカラーを出した特色ある応援スタイルを築き、関東リーグ会場を盛り上げたのであった。

 

今でこそ、Fリーグでは当たり前のようにサポーターの応援合戦が繰り広げられているが、その原点は台北にあった。「トヨ」は今でも、我々の原点は台北にあると述懐している。

 

(続く・・毎週日水+随時更新・・ご指摘、ご意見お待ちしています。次は8章です。)

著者プロフィール

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木暮 知彦
関東フットサルリーグ広報委員。1998年よりフットサルの普及に努め、現在に至る。

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このページは、木暮 知彦が2010年9月 5日 09:26に書いたブログ記事です。

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