その2 新しいメディアの登場
運命の第6回アジア選手権および世界選手権出場の期待を前に、新たなメディアが動き出した。すでに紹介したとおり、これまで、雑誌はピヴォ、ネットはフットサルネットとFC JAPANが主なメディアであった。もはやネットの日刊スポーツとスポナビのフットサル版は存続していない。
ちなみに、メディアの興亡は、ピヴォ、フットサルネット、FCJAPANに代表されるフットサル黎明の時代、この2004年前後の期待が膨らむ時代、そしてFリーグが始まった2007年前後から以降の現在の時代の3つに分けることができる。
ここでは、2004年前後のメディアの状況について紹介しよう。
まず、2004年1月にフットサル専門雑誌の第2誌目、フットサルナビがムック本として刊行される。発行元は白夜書房で、趣味・娯楽雑誌を主に発行していたが、フットサル好きの編集者大久保陽介の企画が通って発行の運びとなったという。以来、先行したピヴォとは交互に隔月で発行が続いている。4月には、第2号が発行され、アジア選手権日本代表の特集が組まれた。
そして、3誌目、サッカーダイジェストでおなじみの日本スポーツ企画出版社がフットサルダイジェストを発刊する。それは、日本代表の世界選手権出場が決まったのちの2004年11月のことである。また、学研のストライカーさらにはサッカーマガジンもフットサルコーナーを設ける。サッカーマガジンはフットサルダイジェストに比べ、フットサルを取り上げる機会は少なかったが、この頃よりその機会を増やしていった。
珍しいサイトもオープンする。それは、ラジオNIKKEIが提供するフットサルラジオウェッブである。インターネットでフットサルのニュースやインタビューなどの音声放送を流すサイトで2003年から試験的にスタートしていたが、2004年2月になって本格スタートした。キャスターは竹川英紀で、のちに女性パーソナリティとして景山のぞみ、小島くるみなどいわゆる女子芸能人フットサルタレントを起用するなどユニークな存在であった。
紙面をピンク色にしたユニークなサッカー専門新聞エルゴラッソが発刊されたのは2004年10月である。夕刊のみの駅売りで当時の発刊元は交通新聞社であった。金曜日にはフットサル紙面があり、日本代表、選手権、地域リーグなどの情報を掲載していた。
ポータルサイト系では、フットサルネットに加え、フットサルタイムスが1年後の2005年4月にオープンする。のちにこの2つのサイトは、自ら執筆するばかりでなく、フリーランスのライターを起用するようになった。
このようにメディアの増加にともない、雑誌社専属あるいはフリーランスのフットサル専門ライターや専門カメラマンが多数輩出することとなった。ここでは、少し前の先駆者を含め、彼らの状況を紹介しょう。
ライターの先駆者としては、学研の雑誌ストライカーでフットサル記事を担当する菊地芳樹がいる。菊池は大学時代サッカーをやっていたこともあって、フットサル神奈川県リーグで実際に選手活動もしていた。その経験を活かし、2001年イランで行われた第3回アジア選手権には現地取材に行くなど先駆的活動を行うのであった。現在、雑誌ストライカーのサッカー記事、フットサル記事ばかりでなく、Fリーグ公式サイト、フットサルネット、フットサルタイムスに記事やコラムを書いている。
2002年くらいからフットサルネットに先駆的コラムを書いていたライター川村真也は、前述した2004年発刊のサッカー専門新聞エルゴラッソのフットサル版(毎週金曜日)の編集を手がけた。彼も先駆的存在といえる。
スペインで、現在、雑誌ピヴォの特派記事を書いている座間健司がスペインに渡ったのも2004年である。この年の8月、スペインリーグのカステジョンが来日、親善試合を行うが、これをきっかけにスペインに渡るのであった。座間は2002年にピヴォのスタッフになっている。
同じく、河合拓も座間と同時期にピヴォのスタッフになったが、サッカーマガジンに転進、経験を生かしてフットサル記事を担当するようになったのは2006年の頃である。
自称「炎のフットサルライター」と呼び、熱い記事を書く田畑弦は、この頃、前述したフットサルラジオウェッブ、フットサルナビを主なフィールドとして記事を書いていた。
北健一郎が、ジャーナリスト専門学校を卒業、フットサル専門の記事を書くようになったのは、2005年のストライカーからであった。その後、フリーになり、フットサルナビ、フットサルネット、フットサルタイムスなどにも記事を書くようになった。今ではサッカーや本の執筆など活動範囲を広げ、「サカテク」、「フットサル速攻マニュアル100」を著作している。
カメラマンの方では、サッカー分野が主活動であるが、すでに紹介した六川則夫が先駆者である。六川は、2000年のバンコクの悲劇の第2回のアジア選手権、2001年の第3回のテヘランのアジア選手権などを取材し、以降も節目の大会には取材を続けている。
もう一人、先駆的フリーのカメラマンとしては勝又寛晃がいる。勝又は、大学で写真を専攻、卒業後、2000年のスーパーリーグからフットサル取材を始め、プレデターの専属カメラマンを務めたり、2002年のジャカルタの第4回アジア選手権に取材に行くなど、フットサル界に入っていった。フットサルマガジンピヴォ、フットサルダイジェストなどで活動している。
軍記ひろしは、現在、フットサルグラフィックという法人を設立、フットサル専門の写真サービスの代表を努め、ユニークな活動をしている。クライアントには、Fリーグ、バルドラール浦安、名古屋オーシャンズ、シュライカー大阪などが名を連ねる。軍記のフットサルデビューは2004年頃であった。なお、勝又も、現在はフットサルグラフィックに所属している。
時は2010年、フットサルの隆盛に期待を膨らませた時代から数年が経過、念願の全国リーグFリーグもできた今日、メディアでどれだけ仕事ができるかというと正直厳しい状況が続いている。いくつかのメディアは休止を余儀なくされ、ライター、カメラマンも転進あるいは兼業となっている。
しかし、当時はまだ、希望に満ちていた時代である。
(続く・・毎週水日+随時更新・・・ご指摘、ご意見お待ちしています。)