その1 悲願達成に向けて
2004年2月、選手権が終わってわずか1週間後、早くも日本代表候補合宿が始まった。この年は「見る」フットサルの究極ともいうべき世界選手権開催の年であった。バンコクの悲劇といわれ、4位に終わった第2回アジア選手権から4年が経ったことになる。そして、4月に行われる第6回のアジア選手権で3位以内を確保すれば世界選手権に出場できるのだ。
ちなみにバンコクの悲劇からの選手権の成績は、第3回(テヘランにて開催、監督木村和司)は4位、第4回(ジャカルタにて開催、監督原田理人)は2位、第5回(バンコク)にて開催、監督原田理人)2位となっている。むろん、優勝はいずれもイランである。しかし、この2位は意味が大きい。なぜなら、常勝のイランとは予選リーグでは同一ブロックにならず、決勝トーナメントも別の山の組み合わせになるからである。
呼ばれた候補は、キーパーを含め、合計20名であった。そのうち、14名が代表としてアジア選手権に参加する。地域の内訳をみると、関東が12名、関西が6名と半数以上が関東で占められた。残りの2名は東海地域のゴールキーパー川原とFC琉球に所属していた関係で地域は九州・沖縄の比嘉である。
サッポ監督になって新しく呼ばれた選手は、関東では、小野、稲葉、稲田、ゴールキーパーの石渡であった、いずれもすでに当三国志には登場した選手で、いつ候補に呼ばれてもおかしくない選手達である。中でも注目は、小野と稲田であった。なぜなら、2人とも役割はピヴォだからである。すでに、ピヴォには相根、木暮がいたが、相根はすでにベテランとなっており、木暮はピヴォに抜擢してから間もない。そこで、どうしても強化が必要だったのである。
実際、小野、稲田は日本代表に選ばれ、稲田7得点、小野5得点と大活躍する。ちなみに、相根、木暮も選ばれており、1得点、9得点を挙げている。この4人で、合計22得点、チーム全体が47得点であったから、半数近くを占めたことになる。サッポがいかにピヴォを重用したかがわかる。
もう1人、注目の選手がいた。それは、稲葉である。すでに、この三国志では、「森のくまさん」というチームで民間大会のピヴォチャンピオンズカップに優勝、MVPをもらうことで登場した。その副賞のブラジル留学に北原(のちに名古屋オーシャンス)と一緒に行ったが、その北原より先に日本代表に選ばれることとなった。なお、この時の所属チームは、渋谷ユナイテッドというチームで東京都リーグ2位のチームであった。そこには、関東三国志を大きく変えたかも知れないドラマがあった。その話は次回に譲ることにする。
通年リーグの必要性が叫ばれ、チームの合従連衡を繰り返しながら、リーグの乱立を経てここまで来た関東三国志の物語。登場人物達のみならず、世界選手権に出場できれば何かが変わると信じてここまで来た日本のフットサルの悲願達成なるか、運命の第6回アジア選手権は、2004年4月16日からマカオにて開催される。
(続く・・・毎週日水+随時更新・・ご指摘、ご意見お待ちしています。)